2014年11月22日土曜日

吉兆のおせち

 もうすぐ12月、日本のサイトを見ると、時々豪華なお節の広告が目につくようになった。それをみる度に、私を苦しめる問題は、ここ数年に始まったことではない。
すべてはあの頃に気がついて動かなくてはならなかったのだと。自戒の念というほどのことでもないけど、いろいろ思う。

 もうすぐ9歳の誕生日を迎える姫。
9年前の今頃、臨月のお腹を抱えながら,私は姑がこちらにきてくれる日を指折り数えて待っていた。
初産も,アメリカでの初めての出産だった次男坊の時も、私は夫と二人で迎えた。
どのときもたいへんではあったけれど,其の都度たくさんのまわりに暮らす人々に支えられて、なんとか乗り切ってきた。
3度目の出産も,もちろん家族だけで迎えるつもりだった。

 でもある日,これを機会に祖父母と暮らす時間を子ども達に経験させてあげることも大切なのではないかと、そんな考えが私に浮かんだ。夫に相談すると夫も喜んでくれた。
孫の手伝い、これはとっても大きな口実だ。舅も姑も喜んできてくれるのではないかしら。。。私に淡い期待が浮かぶ。でも、出不精の舅は嫌がった。
舅は「お父さんは家庭科5やからね。お母さんがいなくてもだいじょうぶよ」と笑う。
 あらら。。。とは思ったけど,無理強いしても意味はない。
久しぶりの孫との時間を楽しみにする姑に感謝して,私は到着を待っていた。

 そして姑が到着して二日後。私のもとに姫がやってきた。
初めての女の子、そして、姑と同じ干支に生まれた姫。家族の嬉しそうな笑顔を見ている私は幸せだった。
夫も仕事の量を減らし、子ども達と一緒にいてくれる。
夫がいないときは,姑が家にいてくれる。安心して二晩を過ごして病院から帰ってくると、彼からメールが入っていた。

 彼のメールは、姪の誕生を祝う以上に、舅の心配だった。
お母さんはいつかえってくるのか? 父が心配だ。一人で何を食べているのか。。。
もう生まれたのだから,母が早く帰ってくるようにしなさい。

 これはどういうことなのだろう。姑がこちらに来てくれて,まだ一週間もたっていない。
お産は生まれる前より,生まれた後の方がたいへんだ。でも、その人にはそれがわからない。子育てを経験していなくても想像できると思うのだけど,彼にはそれができない。わからないことは仕方がないと思ったけれど,私が自分の里へ手伝いをたのまず、姑の手を煩わせていることへの指摘はつらかった。
それでも,私が里を頼れる身の上ではないことは事実。姑の手を煩わせ,舅に不便をかけていることを詫びると、今度は、母が早く帰ってこないと父がミイラになってしまう。というメールが返ってきた。

 彼のことでは、夫も一緒に育つ中で苦労してきた。あああ。。またか。と思いながらも、それでもそんなに心配ならば,年末年始は舅のもとに出かけてくれるのだろうと、私はあたりまえのように思っていた。
かれら夫婦は、半年ほど前に結婚している。結婚して初めてのお正月。少し離れてはいるけれど、朝に新幹線に乗ればお昼前には家に到着する距離。海外も含め年に何度も旅行に行く旅慣れた人達。そんなに心配ならば,顔を見に行くのだろうと思っていた。
しかし暮れに届いた彼からのメールには、御用納めが終って,温泉地にあるお嫁さんのご両親が所有する別荘でのんびりする様子を伝えるとともに、早く姑を帰さないことには舅がたいへんだという指摘。そして、父がミイラになったらたいへんなので,吉兆の高価なお節を送ったと嬉々として書いてあった。

 年末年始に、お嫁さんの家族より自分の父親を優先しろと言うつもりはない。
しかしながら、彼ら夫婦はお嫁さんのご実家の裏に住んでいるのだ。
「仲良し家族」だそうで、四六時中 食事をともにする話しも聞いている。なぜ,いつも一緒にいられるお嫁さんのご家族と、一緒に過ごす必要があるのだろう。
ましてや,そのお節を一人で食べる父親の姿を想像することもできないのか。

 私は呆れて言葉もなかったけれど、その話題をすると姑が苦しそうな顔をする。敢えてすることは私にはできなかった。嫁してから、私はこの人の無神経な言動に苦しめられてきた。人の気持を想像することができないのだとしか思えない。

 親は大事だ。孝行しなくてはいけない。「本で読んだこと」「言われたことは守る」みたいな機械的な気持はあって、不必要に過大に心配する。それゆえに、一面しかしらないひとには、たいへんな「孝行息子」にうつる。
でも、だからといってどういう行動をすればよいのか、想像ができないのだ。
私には,「孝行」している自分に酔っているだけで、していることは周りの人へ迷惑をまき散らすことだけにしかみえないけれど、本人は何処吹く風と高みにたって、苦しい顔をしている母親にまで説教をする。処置無しだ。

 おせち料理は、高価で豪華であることに意味などない。
家族が集まって、穏やかに新年を祝う。新しい年の抱負などを語りながら食卓を囲むことに意義がある。

 あなたが「忙しい」自分に酔って何年も親の顔をみることもしないから、我が家の子ども達は、父親と一緒のテーブルでおせち料理を囲むことはできなくなった。
そんな人でも、我が家の子ども達には大事な関係だろうと思って,敬愛の気持を持つように演出してきた自分が本当に滑稽だ。もう、二度とそんな演出などしない。

 そして、もう二度と、私に「親孝行」の説教などしてほしくない。
あなたがしていることは、ただの自己陶酔でしかないのだから。


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